[本文引用]
会社経営について、最近日々考えていることがある。経営を長年やっていると、本当にやってきたことが正しかったのか、社会に貢献できているのかと自問自答することも多い。
今、日本にも地球環境問題はじめ沢山の社会的課題がある。企業だけの責任ではないが、世間の風潮として、今は企業はこういうテーマでの貢献が求められる。
関連して、徐々にSDGsやESG投資と言った言葉が企業経営の現場で頻繁に登場するようになった。一昔前なら、CSR。それがCSVという考え方に発展し、企業としては、本気で取り組めるかどうかの本音のところはさておいて、表向きは少なくともSDGsしています、と言わないとまずいという空気はあちこちで感じる。
そもそも。
こういうことを考える時に原点に立ち返る必要がある。社会的価値と経済的価値の両立の話でもあるが、実に“言うのは易し行うのは難し”の典型だと思っている。
理由は簡単で、戦後復興から高度経済成長期を経て今に至る日本は、シンプルにいうと如何に儲けるかを錦の御旗に走って来た。儲け方やその背景でどういうことが行われていようと結果だけが問われてきた。
何年連続増収増益が一流の会社という尺度が定着した。企業は大きくなって当たり前、利益の拡大が当たり前。特に上場企業は、株主などのステークホルダーから四半期単位で結果を求められる。
幾ら表向きで、SDGsや社会貢献と喧伝したところで、実際に会社の現場で行われることは、目先の利益、目先の売り上げ拡大である。必然的に如何に効率よく顧客を発掘しできるだけ多く消費してもらうかに焦点が当たる。
いつ頃からそうなったかは、数多知見のある人が解説してきているが、やはり、どこかで方向転換をするべき時はあったが、惰性で流されてきた結果だと思う。
確かに、今伸び盛りの新興国に身を置いていると、日本もかつてはこんな風だったんだと思う。
要するに、貧しい中、少しでも良いものが食べたい、楽しい生活がしたい、遊びもしたい。これからの国が欲求することはどこも無一緒だ。
だから日本も頑張った。
そして、環境破壊を引き起こした。農業も衰退させた。教育も通り一辺倒なやりかたのまま。大企業などは特に巨大タンカーで、急に方向転換するのも困難だし、その巨大タンカーを航行させるための仕組みやち密な役割分担は、そうそう変革できるものではない。
仮に船長が行先を変えようとも、それが全乗組員に伝わり、行動に移すまでは相当なタイムラグが生まれる。これは、日本という国も全く同様の状態だと思う。
日本が必ずしも社会貢献やSDGsの分野で世界のこういう分野の先進国からすべて後れを取っているとは思わないが、今の日本の風潮は焦り過ぎていると思う。中身を伴わず、表面上での改革の美辞麗句のオンパレードだ。
私は、社会的価値と経済的価値の両立は出来ると思っているが、考え方を間違えないことが何よりも大切だと思っている。
それは、前者は目先の金銭的価値は生まない、後者は目先の金銭的価値を追求する活動である。言い方を変えれば、社会的価値とは長い長い時間がたって、それで初めて貢献してきたことに対するリターンがある。
それは金銭的価値も少しは含まれるかもしれないが、それ以外のブランドや信用と言った目に見えないところにつながることである。
例えば新興国の子供たちの教育に貢献することは、経済的価値は生まない、しかし、巡り巡って10年、20年後のその国の発展には貢献できる。
しかし、先で経済的価値につながるかは未知である。最近も応援消費というのが密かに流行りつつある。ここに私は手がかりを感じている。
一般的には、個人が頑張っている人や困っている人を応援消費して社会貢献しようという感じだが、私はこれは企業が参考にできると思う。
社会を応援する投資を企業がする。応援投資である。SDGsやESGも新鮮でよいが、応援投資の方が日本には似合うように思う。そして、随分先への投資であるから、そのリターンは目先でないことだけは誰でも分かることである。
以上