[本文引用]
写真を撮り続けて思うこと。
こんなタイトルをつけると、近藤は写真家にでもなったのか?と思う人がいたりするかもしれない。私は、根本が凝り性なので、一回ハマったら数年から10年は続く。
写真を撮ることもすでに10数年ハマっている。ただ、それは、本格的なカメラマンや写真家がするそれではない。
4年ほど前に、知り合いに感化されて、それなりの一眼レフを買って、本格的に写真家を目指そうと思ったこともある。そういう意味では、子供の頃から、お祖母ちゃんにおねだりして、当時、1万円ほどのカメラを買ってもらって、写真をとって楽しんでいた。多分、数十年前の農村では珍しい変な子供だったと思う。
とは言え、そういう道を目指したわけでもないし、学生時代、20代の社会人の時の写真と言うのは、ほとんど残っていない。社員旅行のものやデートの写真ぐらいで、いわゆる写真家が取るような写真には興味がなかった時期と言える。
この頃、高校時代のある友人が、写真は絶対取っておいた方が良いと、アドバイスを何回もしてくれた記憶がある。
それでも、30代は、そういうところには関心はいかなかった。創業しての10年の写真は、だからあまり残ってない。残していれば、確かに今、色々使えるだろうし、面白いだろうと思う。
多分、曖昧な記憶だが、新興国に行くようになった、初めて見る景色や生活風景を残そうと言う気になった。デジカメが流行っていた頃だ。
ベトナムが多かったが、10数年前からの写真は結構残っている。そして、スマホが登場した。手軽に何枚でもどこでもいつでも取れるようになった。SNSに投稿することも覚えた。
こんなことを続けていると、写真を撮らない日がなくなった。SNSに投稿するために撮るものもあるが、今は、それよりも、感覚的に瞬間的に取ろうと思ったものを取っている。ある意味、自然体だ。一番多いのは、景色。朝日夕陽、雲。樹木、草花。気づいてみたら、この3年近くは、神戸界隈の写真ばかりになった。
飽きが来るかと思うと、そうではない。
当たり前の話だが、1枚1枚に違いがあるし、ふと思ったその瞬間を切り出しているだけに、全てが世界でたった一つのオリジナルだ。
こんなことを毎日していると、写真のストックは膨大になる。そういう意味では便利な時代になったものだとつくづく思う。
写真と言えば、最近は、目につくのが、明治や大正、昭和の初期のカラー写真が見られるようになった。テクノロジーが進化して、モノクロ写真をカラーにできる技術だ。当然、デジタル化される。こうなると、永遠に残る可能性がある。私が子供の頃の古い写真と言うのは、基本的にはモノクロで、たまにカラー写真があったりする。
そもそも、もっと以前のカラーという概念がなかった時の写真が、カラー化されるその理屈には今でも驚く。
私は、今の時代を記録の時代、または、記録の世紀と呼んでいる。私が取っている膨大な写真も遠い先で誰かが見る可能性がある。
こんなことを考えると、そもそも写真を発見した人間とは何者か?と考えることがある。写真の技術から映像に進化したと思っているが、今、写真が無かったら、どういう生活をしているのか?ビジネスはどうなっているのか?想像がつかない。