[本文引用]
書くこと、話しすること、表現すること。
最近、私がこのどれをもしない一日はない。
会社を創業したから今日にいたるまで、この3つの仕事と活動はどんどん密度が濃くなって、
しかも頻度が増えてきた。
自然体という部分もあるが、
このコロナ危機が始まってからは、時間の使い方も変わり、思考回路も新たに増殖し、伝えたいことが溜まり続けている。
思い起こせば、創業間のないころ、
BtoBの仕事から始めた関係で見よう見まねでセミナーを始めた。
それを何回か繰り返しているうちに、
ある出版会社の聴講者から声がかかった。
そこで誕生したのが、私の処女作ということになる。
本当に七転八倒の思いであった。その頃は会社の仕事も意味なく忙しかった。
その時の編集長にダメだしの連発を食らい険悪になりつつ、なんとか出版にこぎつけた。
この時ほど、自分の文章力のなさが嫌になったことはなかった。
ところが思いもよらない反響があり、仕事が一気に増えた。3億の企業支援コンサルの仕事も受注した。
宝くじを当てたような気分にも一瞬なった。
続けざまに、講師依頼が舞い込み、日経BP社のビジネス情報誌にも連載が始まった。
この頃から、自前の開催でない、講師として依頼された、いわゆる講演が増えた。
少なくとも今のほうが話し方は上手になったと思うが、その当時は、関西弁丸出しで全国行脚した。
結構、とんがったことを話していたので、受けは良かったのではと思う。
ただ、振り返ってみると、思い付きでしゃべっていたことが多かったように思う。
今となっては大きな反省である。
並行して、ビジネス誌への寄稿やSmallBizという日系BP社の運営するビジネスマガジンの連載が始まった。
もう15年前の事である。2週間に一回のペースで約3年半続けた。76回で終了した。私の好きな77で終わりたかったからだ。最終回は自前で文章をつくってWebサイトにアップした。
定期的な原稿を書くという事は、最初のころは良かったが1年にもなってくると、重荷になった。編集長に結構厳しく催促され、仕事の合間を縫って原稿を書く日々が続いた。最後のほうになると、ネタの内容まで指摘が入りだし、結構やりあった。
今にしてみれば、この時に編集する人の立場と役割を理解したのかもしれない。
セミナーは仕事柄続けてはいたので、少なからず話する機会はずっとある。
ただ10年以上前からは、ベトナムで経営者向けのセミナーやベトナム企業に対しての社員研修の仕事が増えていたので、ベトナムで通訳を通して話することが一気に増えた。
通訳との相性がとても重要で、慣れない頃はとても苦労したのを覚えている。当然、逐次通訳と同時通訳があるが、同時通訳は大きなカンファランスぐらいだし、そもそも、その通訳のチッェクはできない。逐次だと様々な間合いや聴衆の反応で通訳が上手かどうか?ちゃんと意味が伝わったかどうかはすぐわかる。
一番わかりやすいのジョークだ。慣れない通訳は私のジョークそのものの理解に戸惑う。関西人だし余計分かりにくかったと思う。
私もご多分に漏れず、今はSNSは結構使っている。
最初に始めたのはTwitter。振り返ってみると相当なムラがある。しばらくは続けるが、そのうち何かの理由で途切れると今度は再開がおっくうになる。どのツールでもよいが続けることの重みがよく分かる。
ほどなく、Facebookを始めた。写真好きな私はこれは続いているほうである。そして今は、Yutubeも使う。動画の世界の魅力は、3年前に劇場で上映した映画を