[本文引用]
『知られざる徳島』をベトナムの地へ展開してから8年が経った。
2012年6月のことである。
それまで、ベトナムで約20年近く、ビジネスを展開してきた私は経済産業省が推進しているクールジャパン事業採択に応募することを決めた。
そのときひらめいた企画がベトナムの商都ホーチミンで日本物産館を展開するというものだった。海外に向けて日本の魅力を発信する活動を展開するクールジャパン事業、日本の地方活性化を促進しようという主旨の公募だった。
地方活性化の仕事ですでにいくつかの地方自治体と付き合いはあったが、躊躇なく徳島を主役に選んだ。ちょうど公募の1年前に当社の自主事業としてベトナム・ホーチミンにて「ジャパンスタイルシッョプ」をオープンさせた。
ジャパンスタイルとは単に商品だけではなく、文化やエンターティメントに限らず日本人のマネジメントなども総称した日本様式のコンテンツやサービスの総称として使用している。たとえば、日本人がタイで農業を手掛けて商品をつくる。これも立派なジャパンスタイルである。
当社のショップではオープンから若者向けのファッションやコスメなどの商品群に負けず劣らず、日本の地方の物産も展示販売しており、人気を博していることもつかんでいた。
ところが、そこには障壁があった。公募の企画書を仕上げる段になって、肝心の徳島とのリレーションをつくる必要があった。単に徳島出身というだけでは、あまりにも心許ない。
30年以上も離れていると地元の友人との付き合いも希薄になっていた。当然、ビジネス活動の縁は皆無だ。
そんなとき、吉野川の北岸の徳島市川内町で中学時代を共に過ごした同級生である吉田良氏と再開したのだ。この出会いも実に不思議だ。
私の実弟は実家を引き継ぎ、今も親父の代からの「鳴門金時」の農業を営んでいる。この実弟と吉田氏が地元の会合でたまたま出会っていたのだ。私の弟が吉田氏に私がベトナムでビジネスをしていることを伝えた。すると久しぶりに会おうかとなった。
人の縁とは不思議なものだ。徳島とは帰省ぐらいしか縁がないだろうと思っていた。徳島と再び深い付き合いが始まることになるとは想像すらしていなかった。
すべてはこの時から始まった。
このような巡りあわせの中で、徳島をベトナムのホーチミンへ初上陸させようということになったのである。とはいえ、自治体がすぐにふたつ返事でOKは出さない。特にその頃はベトナムに関心がある自治体などは皆無である。ベトナムの人気が過熱している今でこそ事情は変わってきたが、当時は未知の国であった。
企画書は色々と工夫の末、大枠はまとまった。
経済産業省へ提出した企画の骨子は、『知られざる日本、知られざる徳島をベトナムへ』である。
今でもこのキャッチコピーを使用して、日本企業のアジア進出の本質をお伝えしている。
ベトナムに限らず、特に東南アジアの人々は日本人が思う以上に、日本のことは知らない。これが現実である。特に当社が主戦場とするベトナム人は日本のことなどほとんどの人が知らなかった。
今でこそ、ベトナムは日本企業にとってビジネスを行うにはとても有望な国のひとつになった。しかし、わずか8年前はベトナムを知る人は日本人もほとんどいなかった。ベトナム側も日本のことを知っている人も少なかった。
まして、日本の四国の徳島を知っている人など皆無であった。徳島は関西の台所と言われるほど農業に関しては競争力はとても強く、農業分野ではベトナム人が随分前から徳島で研修生などが多く働いていた。少なからずつながりはあったようだが、他の産業のつながりはほぼ皆無。ましてや、ベトナムの一般人の観光地として視界に入ることはまったくないと言っても過言ではなかった。
ベトナムでは、日本のことはほとんど知られていない。ならば、日本国内でも知名度が低