[本文引用]
“理不尽の勧め”というタイトルの書籍を考案してとうに10年は過ぎた。
出版会社カナリアコミュニケーションズの運営に20年近く関わってきたが、私のとっておきのネタでもある。
シリーズ化も考えていた。友人知人達の昔の理不尽体験を語ってもらいシリーズ化を考えていた。仕事柄もあるが、私の知り合いはタフな人が多いのが最大の理由である。
昔が良いとか今が良いとかを議論しだしたら、永遠のループだ。
人類誕生以来、人間の社会環境や生活環境は進化していると考えるのが心が穏やかで良いと思っている。
過去も今もこれから起こる未来も全て人間が歩んできた結果であり、全てを受けてめて未来の進化や成長につなげればよい。
ならば、私が生まれたからたったの半世紀やそこらで、今と昔を比べる事の虚しさが芽生える。
とはいえ、今の50代以上は日常会話で昔の事を口に出すことが多い。私もそうだ。
私達世代以上の日本人としてはずっと昔に思いは馳せながら生きているとも言える。
例えば、たった300年近く前、日本にはサムライがいた。安定の江戸時代の前は戦国時代だった。人はなぜか戦国武将のドラマには心惹かれる。
視聴者のどこかに、こういう勇ましい姿や生きざまにあこがれるのだと思う。
そんな目線で見たときに、昭和の時代は逞しかった。これはビジネスパーソンだけのことを話しているのではない。一般の生活者も含めて世の中全体がタフだったと思う。
今までもブログで新興国の事は何度も書いてきたが、今の日本と新興国を比べて、何が違うかと言えば、新興国はタフなのである。
日本の昔と似ている。昭和の時代、特に前半は日本もタフだったと思う。
こういう環境では、今でいう理不尽の体験は山のようにあるだろう。
時代と共に価値観や人の判断基準は大きく変わった。
例えば、昭和30年代の頃の生活や仕事をしていれば、今のコンプライアンスにほとんどが抵触する。
これから先はどちらに向かうか分からないが、昔に比べると今の日本はコンプライアンスにに縛られている。良い方向につながるのなら良いが、今のこのやり方の結果は10年、20年先に出てくる。
話は変わるが、一時期、日本はゆとり教育に走った。象徴的なのが小学校の徒競走で順番をつけない。要するに、競争するというトレーニングの機会をなくしてしまっていた。仮にそういう教育が今もあるとしたら、大人になった世界も競争ではなく共創だけの世界が存在していればよいが、残念ながら、大人の世界は競争だらけである。コロナ禍においてもそれは変わらない。
単純に考えて、子供の頃は幾多の失敗を意図するかしないかに関わらず経験する。子供の時ぐらい失敗から学べる時期はない。今は明らかに子供の頃は過保護で、失敗体験が少ない。
私ぐらいの年齢以上の人が集まると、昭和の中ほどあたりの時代の子供だったわけで、色々と我慢をさせられたし、理由も分からず怒られることも多々あった。
私は、特に親父はとても怖かったし毎日のように農家の仕事を手伝う環境が嫌で嫌で仕方がなかった。忍耐力は子供の頃に勝手に身についたと思っている。
随分前に親父は他界したが、今は感謝の一言しか頭に浮かばない。
私は自分の経験上も理不尽なことが人を育てると思っている。
逆境に耐えうる力やしなやかに粘る力が身につく。それは子供時代に身に着けるのが一番だ。
これから日本が今以上に平和で安泰としていれるのなら、子供の頃に緩い世界でもよいかもしれない。
しかし、その望みは薄い。世界は全体的には戦争や飢餓などの重大危機などは長い長い歴史の中、一番少ない時期であるという説もある。
その一方、私も再三取り上げてきているが、すでに地球は限界に近付いている。人間が地球に住めなくなる可能性が増大している。成長の限界に近付いているのだ。
世界には様々な困難が山積みだ。日本が鎖国すれば別だが、日本は世界の平和や健全化に貢献する使命や役割がある。
今の私達もそうだが、これからの世代の人たちはタフでなければならない。きれいごとだけ日本の役割を果たせないのである。
昔のやり方が良かったというわけではないが、少なくとも新たな理不尽を経験する場を創る必要があると思う。過保護だけでは何のプラスにもならない。
きっと、今の日本人には、理不尽の勧めというから抵抗があるのかもしれない。ならば、今流行りのレジリエンスを身に着けよう。
こういう風に言い換えるとたちまちチャレンジしようかと思えるので、日本語は不思議である。
いずれにしても、書籍化はしようと思うが、機会を見つけて、私の理不尽体験を語り合う場を企画しよ