[本文引用]
首都機能移転が騒がれたのは、いつだっただろうか?
私は、基本的には大賛成だった。
そう考える理由は、都市開発の専門家ではないが、東京一極集中は、災害リスク筆頭に様々なリスクを孕んでいるし、人口減少社会ではあまりにもいびつに感じていたからだ。
結局知らない間に、首都機能の移転は話題にならなくなった。
そんな中、最近、消費者庁は私の故郷である徳島県に一部の機能を移転した。
そして、コロナ禍の中で注目を浴びている。
すっかり頭から消えかけていただけに、このニュースには喜んだ。
東京一極集中に向けてテレワークの普及とともに、一つの試みとしては、とても期待感がある。
私は仕事柄も個人的にも人並み以上に都市に関心がある。
新興国を巡っていると特にその思いは強くなる。
なぜならば、どの国も都市開発に躍起で、他の国との覇権を競うかのように高層ビルを乱立させている。中国などは最たるものだ。こういう都市開発が地球環境に良いわけがない。
私が、一番活動時間が長いベトナムでも同じようなもので、最近のホーチミンやハノイの発展の勢いは凄まじい。
私が、事ある度に、取り上げている書籍が、
“都市は人類最高の発明である” だ。
この本は、古代文明あたりから現代の東京に至る歴代の大都市を分析評価している。
そして未来を見据えた内容には心躍るが、一方でスッキリした感じはしない。
その理由は、日本だけではなく、どこの先進国もメガシティに内在する大きな課題があり、解決策を探しあぐねている。それにもかかわらず、大方の専門家のこれから10年、20年の予想では、新興国などがどんどん発展する中で、東京クラスの大都市が次々と誕生するとされている。
人間はどうしてここまで都市に集中するのだろうか?人間のこういう特性を知るとこにも私はとても関心がある。
人間は本能的に都市に向かう。豊かな生活を求めて。刺激を求めて。人との出会いを求めて。挑戦でもあるのかもしれない。
発展著しいベトナムにしても、これら発展するアフリカの国にしても、田舎育ちの人は、常に都市の存在を意識し、都市にあこがれで生活している。
現代の日本などの経済大国の目線で見れば、明らかに都市は、経済発展の原動力でもありプラットフォームでもある。ハード面、ソフト面、両面でとても精緻で複雑なメカニズムが構成されている。そこに、大量の人が活動するわけである。
大都市の全容の把握が出来る人がいるはずもない。
都市はメディアであるという表現がある。
建築はメディアであるという表現もある。
建築はアートと言う言葉もよく耳にするが、そういう意味では都市はアートとも言える。
人間が集積するからこそ、メディアにもアートにもなりえるのだろうと思う。
私もメディア関連ビジネスに20年使く関わってきたこともあり、都市のこのメディアの役割はとても関心がある。
メディアとは、“媒介する”という意味がある。
都市は人が集まり、企業が集まり様々な情報が生まれる。情報そのものがメディアの源泉ともなっている。
ここ最近のIT社会の進展の中、都市だけに集積していた情報が地方でも入手できる、海外でも遠くの新興国でも入手できるようになってきた。
言葉の問題さえクリアできれば、今どきは、仮にマスメディアが発達していない場所でも、個人が主体で発信する情報を世界中から入手できる。
先日、面白い本に出合った。とはいえ、例のごとく。購入したのは3か月ほど前だ。
ふと、書籍の山から目について、一気に読んでみた。出だしが面白かったから、最後まであっという間だった。
その本のタイトルは"都市5.0"だ。
健全な未来予測が特に秀逸で、最高だった。
黒川紀章氏の提言から始まるこの本は出だしからワクワクだ。
前書きを、少し引用すると。
神の都市
王の都市
商人の都市
法人の都市
個人の都市
と進化してきた。
黒川氏が1965年に著した“都市デザイン”で述べているとある。
今は個人の時代である。この考えに、私は全く同感である。
そして、私は人間らしさの時代が来ていると考えている。この本の根底の考え、人間中心の都市開発が必要である。には大賛成だ。
複雑に構築された経済メカニズムのコアでありハブであり根幹である都市を変革するには、20年や30年ではどうもならない気がするが、人間中心の都市開発であれば、個人個人の意識の持ち方、行動の変容で都市は変わるのではと思う。
そういう意味でも、
今年の3月発刊の“都市5.0”はとてもタイムリーな本だと思うし、私もこの分野の具体的なビジネス活動で貢献したい。日本を反面教師に新興国のこれからの都市開発に貢献できればと思う今日この頃である。
以上