[本文引用]
人間の社会には何かにつけ、教育という行いが存在する。
私も仕事では教育というキーワードは日常で使っているが、この意味を正確に説明してほしいと言われると、なかなかできない。私としては、人に何かを教え育てること。というぐらいか。
とはいえ、仕事がら今の私の場合は、やはり社員教育が真っ先に頭に浮かぶ。
ちなみに、ウィキペディアから引用すると・・・
教育(きょういく、英語: education)は、教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせるために、心と体の両面に、意図的に働きかけることである。教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすることである。
なかなか、奥が深そうだ。
教育という言い方は、結構新しいと思うが、おそらく、教えることは人類誕生以来、存在していると思う。
日本の古代、縄文時代あたりは、森羅万象、自然から学ぶことがおこなわれていた。この場合は、自然が人に教える。という構図である。
学校の教育と言う視点で考えれば、そんな遠い昔ではない。
江戸時代は誰でもが知っている寺子屋だろう。
義務教育制度の導入は、1872年(明治5年)だ。
身近で考えると、人間が生まれてしばらくは親から生きるための教育を受ける。そして社会生活に適応するための躾教育や集団生活の教育。このあたりは家庭教育が主体の時期だ。そして学校教育が本格化する。小学校に行き、本格的勉強が始まる。基本的に教えるのは先生だ。そして親もそれに関わることもある。
やがて受験の勉強が始まる。早い子であれば、小学生から受験勉強が始まる。学校だけでは成り立たず、塾や家庭教師に教わる。大学でも学び、そして社会人になる。社会人教育と呼ばれる仕事のための教育が始まる。
今どきの大学生は、働く前の教育に時間がかかる。働きだしてからも様々な場面で教育が待ち受けている。
仕事を離れても自己啓発や未来のための教育を受ける機会は沢山ある。
教えられる人と教える人がいる。そもそも、人間は全員が教えられたり教えたりするといったほうが正確かもしれない。
書き出したらきりがないのでこのあたりで一旦次の話題に移る。
私自身ももちろん、色々と教わる立場でもあるが、やはり、仕事柄、人に教える機会が圧倒的に多い。
私の人生で本格的に人に教える。というのは大学時代の家庭教師が始まりである。
親戚の子に無料で教えるのではなく、アルバイトであるから、そりなりに責任を感じてはいた。
社会人になって5年目に転職した会社で初めて部下を持った。その時の部下が中国人とマレーシア人。私がビジネスで初めて教育担当としてちゃんと教えたのはこれが初めてだ。
その後、20代で部下の教育と言う機会は少なからずあった。ただまあ、それまでは思えば、上司から教育してくれと仕事として言われたからしている。という受け身だったと思う。まあ、教えることは好きなほうではあったが。
そんな私が、教育にのめり込んでいくことになった。
31歳で創業してからは、社員教育がいきなり、自分の責任のど真ん中になった。
数名でスタートした素人集団。とにかく学ぶしかない。どの会社でもそうだと思うが、外部に教育を頼んでいるお金もないし発想もない。出来る出来ないではなく、とにかく社長の自分がする。というギアチェンジだ。
最初は思い付きでなんとか教育を出来たとしても継続できるものではない。そのうち、毎回、自分で教える内容を考えて、先に学んでそれを教える。こんなことを繰り返して早30年近くになる。
この過程で、ビジネスとしてお客様に教育サービスを提供するようになり、日本国内でもそうだが、ベトナム人教育には相当時間を費やした。
ベトナム人教育はそれなりに貢献できた自負もあるし、日本でも経営者から感謝されたこともある。
そんな経験もある中で、自社の社員教育はどうだったか?ガチンコだけに答えは簡単には出ない。昔にさかのぼれば上るほど、社員教育が会社の成長やレベルアップは不可欠だと思っていたと思う。最近、それにだんだんと疑問を持つようになった。
冒頭でも書いたように、人類は教え、教えられる歴史だ。
太古の昔は、自然や自然現象から学んだ。
人間は学ぶ動物だと思う。
ただ、本質的に自ら学ぶ。という事に尽きるのであって、それがない限りどんな教育も役に立たない。”らくだの有名な話”の通りだ。
長年、教育に