[本文引用]
今、東京がとても新鮮だ。
去年の今頃から私のビジネス活動の拠点を神戸に戻すことを決めていた。
そんな中、コロナ禍が発生。予定より早く神戸シフトが進んだのと、私が東京に来る回数が極端に減った。
実際、4月からは移動できない状態が続き、あれやこれやある中で、今は、東京は月1回か多くて月2回だ。
コロナ禍前も、新興国へほぼ毎月出かけていたので、必ずしも東京どっぷりではなかったが、今は、東京をとても新鮮に客観的に感じている。
私は27年前に神戸で起業した。
理由はシンプルで一生神戸に住みたかったから。それだけ神戸が好きだったし、今でも神戸が好きだ。もともと、SOHOワーカー志向で、神戸にいながら世界とかかわりビジネスや人つながりを展開できれば、どれだけ楽しいか。そんなイメージで始めたのが、ようやく実現に近づいてきた。IT社会が進展したからこその話である。
バブル崩壊後ではあったが、創業後ITビジネスは順風満帆だった。倍々ゲームのように、数年で売り上げは8億近くになった。
そんな時だ。ビジネスの友人から、
“近藤さん、神戸でだけでなく、東京で勝負したら?”
こな風に言われた。実際にこの友人のアドバイス(挑発)に乗っかって、負けず嫌いの私は東京に出たわけである。
今どき古い考えだとは思うが、20年以上前にはこんな考えが常識だった。
大阪の商売は難しい。ただし、信用を勝ち取ったら長く付き合える。一方で東京は受注は直ぐにとれる。しかし、切られるのも早い。
周囲が親切に色々と教えてくれた。
実際にその時はそう感じたし、思ったより順調に東京で顧客開拓が出来た。ただ、ほどなくして私は新興国のベトナムに力点を置いていったので、東京のそういうビジネスの土壌は気になる事はなくなった。
海外と日本を行ったり来たりしている中で、日本にいる時は毎週必ず東京に来ていた。創業から数えると、国内外で約1100回は出張している訳で、新幹線の乗車回数で言えば、おおざっぱに800回は越えていると思う。残りの300回が毎月海外という感じだった。
東京が主たる事業の現場になっていき、人員も東京に集中した。
一方で、地方都市での活動も徐々に盛んになってきて、今に至る。
東京は、私のような徳島の人間にとっては、未来の大都市だった。
初めて東京に来たのが、高校の修学旅行。あの時の東京タワーが脳裏に焼き付いている。
その後、大学生になり、時々遊びに行くようになった。最初入社した不動建設の入社時研修で、東京に1週間滞在した。その時の緊張感と新鮮な感覚は今でも忘れない。
その当時、自分が東京で自分の会社のビジネスをするなど想像もつかなかった。
今にしてみれば、気持ちのどこかに、東京は異次元の世界、田舎育ちの私がかかわる場所でない。といった感覚だったように思う。
そんな訳で、私は結構、長渕剛のとんぼが大好きだ。この歌詞がとても感覚的に私に合う。
カラオケで私が歌った歌ランキングで断トツで一番だ。
特に、“東京のバカヤローが、半端な俺の骨身に染みる・・”あたりが最高のフレーズだ。
人生にタラレバはないと私は思っているが、それでも未来のために過去は振り返ることはある。もし、友人の言葉に乗っかっていなければ、その頃すでにベトナムを始めていたので、東京には縁がなかったかもしれない。
実際、今の日本では、地方都市の経営者は東京か新興国の選択をする人も多い。
そんな縁のある東京でまだまだ何かできそうで楽しみである。
私は、海外の都市を観察したり探索したり考察するのが好きだ。そして、それぞれの都市の未来を想像するのも楽しみだし、仕事でもなんらかで関わっていたいと思う。