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農業の仕事をどれだけ、一般の生活者がご存じだろうか?
農業といえば、畑や田んぼを耕す、種をまく、育てる、収穫する。大雑把に書けば、こんなプロセスだ。日本人の老若男女のほとんどが農業のイメージはあると思う。
もちろん田舎であれば、身近に畑や田んぼがあり、今どきのSNSを駆使する若者でも、日常生活の中で、農作業を見かけることだろう。田舎暮らしの人は自然と、子供のころから農業が体感できる。
ただ、実際に農業するかというとほとんどが農業の仕事は経験しないまま、大人になり、都会に出ていき、スーパーや八百屋に並ぶ野菜を消費する生活者となる。
私は、農家生まれの農家育ちである。
私の生家は徳島にあり、今でも男三兄弟の三男が、跡取りをして農業を継いでいる。
ちなみに徳島といえば、かつては関西の台所と言われるほど農業が盛んなエリアである。それは、雄大なる吉野川とその流域に広がる徳島平野の豊饒な土壌と水の恩恵だ。
随分前に親父は他界したが、私の子供の頃の農家は、家族が農業を手伝うことは当たり前だった。だから、私も小学生になった頃から、農業の仕事の手伝いが始まった。
親父の口癖は、“ご飯を食べるのなら働くのは当たり前だ”
後々、大人になって気づいたことは、平均的な農家の家庭よりもとても厳しかったということだ。躾というか、父親のとてつもなく怖い威厳を感じた子供時代だった。
それと同時に、農家の仕事を手伝う毎日が、遊び盛りの子供の私には、とても窮屈で制約に感じていた。
農業の仕事としては、私は、大きく三種類を体験している。
小学校低学年までの稲作、そして田んぼから畑への転作後のサツマイモ。私が小学生からしばらくの間は、夏はサツマイモ、冬は大根、つまり二毛作だった。
稲作では、田植えを手伝っていた記憶はあるが、如何せん、農作業者としては駆け出しで、多分何の役にも立っていないと思う。
その後、親の手伝いで雑用や、畑の畝を整える仕事など徐々に仕事の幅が広がった。
本格的に農業に貢献しているなと感じたことは、出荷用にサツマイモの毛を取る仕事だ。
今でも、ときどき、私の友人や知人にこういう仕事の話をすることがある。アグリセミナーで話することもある。
多分、感覚的に実際問題としてそういう労働を想像したことがないようである。
まあ、農業の仕事はあまりにも多様で、自然が相手な分、変化も激しい。しかし、収穫した後のサツマイモを出荷のためにきれいにする仕事は、私の子供のころから未だに変わっていない。
本当に必要な仕事なのか?子供のころからの疑問は今でも解消されていない訳である。
芋堀を体験したことがある方なら分かるが、毛だらけだ。一方、販売されているサイマイモはとてもきれいになっている。
洗っているだけではない。農家の人が丁寧に一つずつ芋の毛を取る仕事をしているからである。