[本文引用]
日本人はこのコロナ禍で、日本の良さや価値、日本人らしさの原点を再発見しつつある。
その代表的なものが“自然”だと思う。
日本の自然は世界の中でも特別な存在だ。
ここ最近ずっとだが、様々なメディアから流れる情報でも私の身近でも、自然に関する話題が増えた。そもそも私は農村で生まれ自然の中で生きてきた。だからこの流れが心地よいし大歓迎だ。自然に関する情報センサーはますます感度が良くなってきたと思っている。
感染症対策には、なにかと自然環境が一番という感覚は、誰しも否定しないと思う。必ずしも医学的、科学的な見地からの話ではなく感覚的な話だ。
自然といえば真っ先に連想するのは地方や田舎だ。実際に都会と比べて人の密集度の違いが大きいが、今でも田舎に行けば、感染症のリスクはあまり感じることがない。(もっとも田舎からすれば、都会から感染を持ち込まないで。という心配があるのも現実ではあるが・・・)
話は変わるが、今日は“踊り場”の話をしようと思う。
私はこのコロナ禍の最中に、ブログでこの危機は人類にとっての踊り場だと書いた。その後オンラインセミナーでも何回かそういう話をしている。
踊り場だからこそ考えたいこと気づきたいことがあると思っている。
まずは、改めて踊り場の意味を考えてみる。
辞書を頼りに、私なりにまとめたものが以下だ。
一般的には現代人は、階段の踊り場を連想する。
例えば山上の神社に行くのに500段の階段があったとしよう。これを一気に登るのはさすがに大変だ。だから所々に踊り場がある。
単純に考えると踊り場というのは一休(ひとやすみ)ということである。
実際に人生はこの階段を上ることによく似ている。一気に駆け上がるものではない。山あり谷あり、まさかもある。
だから時々一休みが必要だ。
今は、人類にとっての一休みだと思う。
踊り場には他にも重要な役目がある。
セーフテイネットにもなりえるのである。階段の途中で、疲れ果てて、真っ逆さまに転げ落ちたくはない。踊り場はストッパーとしての機能もある。
ビルやマンションの非常用階段を思い浮かべればすぐわかる。
踊り場の役割として私が最も伝えたいことは、立ち止まることである。人生には、立ち止まってみることで見えてくることが沢山ある。
一つは今までの人生の振り返りである。
自分が上ってきた階段を振り返る。そして周囲の景色も落ち着いて見る。この感覚は、頂上に登った時には大抵の人が味わうが、階段の途中でも同じ事である。
だから私は踊り場から見る景色も好きだ。
また、立ち止まることによって自分の体力や状態を少し冷静に判断できる。これを人生に例えたら踊り場を設けることによって自分の生き方や考え、これからの目標などを冷静に客観的に見直すことが出来るのに近い。
コロナ前は、日本も世界も相当なスピートで動いていた。それが今、コロナ禍で一休みしている訳である。
こういう観点から考えても、今回のコロナ禍は危機ではあるけれども人類が大きな転換をするチャンスであると思っている。
特に日本は戦後からの数10年せわしなく走り続けてきたと思う。そうする必要があったことは理解できているつもりだが、だからこそ、そろそろ一休みが必要だった。
長い間、日本人は惰性で流されてきた。自ら立ち止まったり方向転換したりできそうになかった。
人口も減っている。昔の日本と違うのである。この踊り場で気づきたいものだ。
実際、ここ最近はコロナ禍の経験をどう活かすかに目を向ける人も増えてきた。
私は大歓迎である。