[本文引用]
長いこと生きていると、人間の習性と言うか、人間の仕事や活動の特性やパターンが明確に見えてくる。
その一つが記憶によって人間の活動は成り立っているということだ。ほとんどの人が、何をするにしても記憶を頼りにする。
シニアになって、記憶機能に不具合が生じると生活も困難になる。
記憶は生きていくために不可欠なものだ。
一方で、私は仕事においては、創業時から
“記憶より記録”を推奨してきた。
そして最近ますます重要視するようになった。
外山滋比古氏の“情報の整理学”を最近読んで、さらに確信に至った。
表現は違うが、記録の大切さが分かりやすく書いてある。30年以上に渡るベストセラーで、すでに約250万冊売れているようだ。
私が購入した帯には、東大、京大で一番売れている本とある。この帯はけっこうキャッチーだが、中身を読んでこの帯にした理由が腑に落ちた。
日本の学歴社会の最高峰の学生だから、この本を読む。いや、読むべきなのかもしれない。
私の大学受験の頃に比べたら、世の中もだいぶ変わってきているように思う。
それでも、日本の受験勉強はエスカレートする一方だ。近隣国で受験戦争が熾烈なのは、韓国、シンガポールあたりか。
私は、これらの国の教育の内容に精通している訳ではないが、最近、日本の大学ランキングがアジア諸国の中でも毎年低下し続けていることには憂いもある。
外山氏の“情報の整理学”の出だしに、今の日本の教育は、グライダー型の教育とある。
つまり、自力で飛べる人が少ないということだ。自力型の人を飛行機の操縦に例えている。分かりやすいし、とても新鮮で面白い表現だ。
この本の初版が書かれたのが、1986年なので、時代背景が私の感覚と一致する。私が社会人になりたての時期である。
ちなみに、私は外山氏の表現に当てはめると、グライダー人間ではないが、自立した飛行機型でもなかったと思う。少なくも真面目な生徒であったことは一度もない。
私が言うのもなんだが、少なくも私と周囲の友人たちの体験を基にすると、日本の教育は記憶力を試すしくみが根底にある。
詰め込み教育やゆとり教育の議論が懐かしいが、記憶さえすればテストでは良い点を取れるし、大学も大抵のところは受かる。
都会であれば、長い人で小学生から大学受験の準備に入る。
概ね10年近くこういう環境で頑張っていると、自然と記憶する能力だけが向上する。脳の訓練としては完全に偏っていると思う。
今でも私は記憶してしまっているが、日本史の年号の覚え方など典型だ。
そもそも、年号を覚えてそれが正しいかどうかのテストに何の意味があるのか?
英語もそうだ。ようやく、英会話重視の英語教育が始まりつつあるが、果たして日本の記憶がベースの土壌で変化が起こるかだ。
少なくとも、私は英語については記憶だけの勉強で済ましていた。他人のせいにするわけではないが、結果論からすると、学校で学んだ英語はほぼ活用できていない。英語を話する外国人とのコミュニケーションができていれば、随分と英語スキルが違った気がする。
私は、記憶重視の教育の弊害は、ビジネスの社会でより深刻であると思っている。
最近は、学校教育の場も変化の兆しはある。遅れること10年、20年で、働く社会も変わっていくとは思うが、ビジネスの社会ではそんな悠長なことは言ってられない。
高度経済成長期は、ITも今ほど発達していなかったし、記憶力重視で組織活動を行っていたと推察される。
今は、IT活用は劇的に進行している。
ITがいたるところに浸透しているし、もはや、ITなくして人間生活は成り立たなくなった。
これからは、記憶力重視の環境に変わっていく。記憶教育を受けた人が社会人になると苦労することになる。
シンプルに書くと、ITは記憶装置だ。ここでいう記憶とは記録の事だが、IT業界では長年、記憶装置と呼んできた。
これからは、記録装置と呼ぶと分かりやすい。(一部、業界ではそういう呼び方はあるがメジャーではない)
そもそも、アルゴリズムをプログラミングなどの方法で、仕組み化してITは機能するわけだが、データがないとITは機能しない。原点はデータの記録だが、今では音声でも画像でもセンサーから取得したデータでもなんでも記録できる。
仮に記憶で人間がITと競争すれば、その結果は子供が考えても答えは明白である。
今、AIに人間の仕事が取って代わられる議論があるが、これは、産業革命が始まって以来繰り返されてきたことである。
しかし、デジタルの記録が進行している社会での人間の役割は、これとは別で考えるべきだ。
ここ数年であっという間に、記録社会が進行している。私は記録の時代と定義している。