[本文引用]
ここ最近ずっと、私は朝日と夕日に凝ってきた。
このブログでも書いたことがあるが、朝日と夕日を写すことが日常である。
ここ一年近くは海外には出かけていないので、もっぱら国内を写す機会が増えた。
海外に頻繁に行っていた頃は、行く先々の朝日と夕日を写すことが私の行動の起点になっていた。
どこへ行っても、日の出と日の入りの方角と時刻を気にしている自分がいた。最近は便利なアプリがあって、世界中どこにいても、そのあたりをつけることが出来る。
半年ぐらい前から、神戸界隈の朝日と夕日を取ることが多くなってくると、一日たりとも同じようなシーンはないのであるが、なんとなくバリエーションが欲しくなるから、人間とは不思議なものだ。
私自身も神戸の日常の同じような朝日や夕日ではワクワク感が減ってきた。
そうすると、自然と、雲の形状がとても気になりだす。シンプルに言うと、快晴の日の朝日は爽やかでやる気満々モードは全開になるのだが、似たような写真が何回か続くと、投稿していても訴求力や感じる力が弱ってくるように思う。
実際に生で見ている自分に飽きが出てくると、鑑賞いただく方にも伝わるのでは・・・。最近、こんな感覚が支配し始めてきて、だんだんと、雲が気になりだした理由の一つにもなっている。
もともと、私は子供の頃、畑に寝転がって、雲を眺めるのが好きだった。私世代の人達と、子供時代の話になると、結構共通の話題になる。
雲は様々な形に見えてくる。動物にも見えるし、人間のようにも見える。アイスクリームや食べ物にも見えてくる。
何かに似ていなくても、不思議な形についつい魅了される。
そして、当たり前すぎる話であるが、瞬間瞬間で形や展開が変わる。だから切なくもあり儚くもある。今は、その気になればスマホで手軽に瞬間が撮れる。趣も変わってきた。
大人になって海外に行くようになって、改めて子供時代の感覚で雲を見ることも多くなった。
昔も今も変わらない。同時に世界中にこんな感じで雲を見眺めて、楽しんだり喜んだりしている人、物思いにふけっている人がいる。
色々とそういう姿を想像すると同じ地球上に同じことを感じる環境や変化がある事にも気づく。
それと、海外に行く場合は、なんといっても飛行機から見る雲が楽しみだ。
これは当然、地上から見る雲とは全く違う。
地上で生活している人には味わえない何とも言えないスリルと不思議感がある。
人間が空を飛ぶ。しかも鳥の高さではなく雲の上を飛ぶ感覚に、何度飛行機に乗っても驚く。そういう感覚が合い混ざるから、余計に雲の上から見る雲には、あまりにも特別な気持ちが芽生える。
だから、自然と写真も多くなる。
入道雲もあれば、雲の上からの朝日や夕日もある。雲の隙間から覗くドバイの大都市やアフリカ大陸。台風の上を飛ぶことだってある。
およそ日常では考えられないシーンが拡がる。冒頭の朝日や夕日と同じように、飛行機でも最初の頃は、快晴で地上や海がはっきり見渡せる景色が良いが、見慣れてくると雲が重なった方が、格段に創造力が増すし、アートな世界体験が助長される。
こんな風に書き出す雲ネタは尽きない。雲談義だけでも何時間もできるし、SNSの投稿だけでなく一冊の写真集や本までかけそうに思う。
実際、昨年再開した油絵にしても、製作途中の絵はすべて、空をどう描くかを意識している。
そこには、やはり、快晴ではなく、雲があってほしい。
それだけ雲を描くこと、表現することは奥が深いと感じている。
先日も、ギタリストでもあり和楽のプロアーティストの高谷秀司さんと、思わぬ雲の話題で盛り上がった。彼から教えていただいた。
“雲は天才である”(石川啄木)。注文した本が届くのが楽しみでならない。
自然現象や自然環境から人間が感じたり学べることは多い。
そんな中で、私はしばらく雲を題材に色々と思考を巡らせていき、かつ、アート的な側面でも深めていこうと思う。
以上