[本文引用]
自分が生きている時代を、人類の歴史にのせて考えると、不思議な気持ちになる。
人類は誕生以来、進化し続けていると言われている。実際、そういわれても今を生きている私達には直接確認のしようがない。
そして、これはいつの時代も同じことである。
鎌倉時代に生きていた人は、その時代しかわからない。今以上にそれ以前の事を知る術はなかったはずだ。江戸時代でもそうだ。人の寿命が長くなったといっても、せいぜい100年だ。
昔、50年にも満たなかった時代と考えると、とても短い感じがするが、人類の歴史から見れば、どちらも大差ない。
少なくとも私たちが学んできたことから類推すると、人間が生活する環境や仕組みについては進化を続けている。
飛行機で大抵の国に行けるし、潜水艦まである。
今では宇宙旅行もできる時代なった。
こういう風なことに私も人並み以上に関心があるので、色々と探求したり学んだりの毎日であるが、そんなことをしていると、ほぼ今がこういう進化の最高点ではないと自然と思えてくる。
よく、年始になれば、未来予想の雑誌や記事が一斉に登場する。
2050年の近未来のテクノロジーや生活環境については、専門家でなくても想像出来ることは、大抵そんなに変わらない。でも、それがさらに30年後、50年後になると全く想像ができない。
多分、今の年齢にもよるが、自分が生きている可能性がある先までは、人間は変化を想像し楽しむことが出来るのだと思う。自分が存在しない世界は考えないのが自然だ。
だから、今はまだ、100年後の未来の予想図はあまり世の中に見当たらない。
私は、あれこれとこんなことも思考しながら、日々の経営の仕事にも力を入れている。
そうするといつも不思議な気持ちになる。
人間は、もともと、他の動物に比べて、身体能力や生きる力は弱い。例えば、今、裸で生活できるかと言えば、なかなか困難だ。走るのにしてもサバンナで生きて行くには遅すぎる。視覚や聴覚にしても動物の中では普通以下だと言われている。
一方で、人間が創った建造物は何度眺めても感嘆する。関西であれば、明石海峡大橋にかかる巨大な架け橋を渡る度に、何度通っても不思議な気持ちになる。
人間の何百倍、何千倍のスケールの橋をどうやったら、この荒々しい海峡に架けることが出来るのだろうか。
もちろん、私は建築関係の仕事もしているので、理屈は分かる。
今、新興国などの田舎に行くと、細い川に、木の枝一本で橋を作り、それを渡るシーンにお目にかかることもある。だから出発点はそこだと思う。
本能的に、木の枝を渡せば、その上を通れると分かっている。
それが、巨大な架け橋に到達するのには、とてつもない長い年月、試行錯誤と技術革新と労働があったと想像する。
こういう話題の時によく登場するエジプトのピラミッドにしても、日本の殿様のお城にしてもそうだ。昔こそ、テクノロジーも未発達で、便利な機会も何もなかった時代に、人間が思いつく範囲での様々な工夫と膨大な労働で成し遂げてきたはずだ。
自分たちが生活を安定的にする、安心できる環境をつくる、便利になる。こういうことに関して、人間は、徹底的に試行錯誤と発明と発見を繰り返し、今まで進化してきた。
これは人間そのものがもっている能力が進化したというよりも、人間が新たなものを生み出して生活する場所や環境を進化させてきたものだ。
そして今の日本で言えば、便利極まりない巨大都市や地方ののんびりとした生活環境が出来上がった。
今がどんな時期かは千年後や一万年後にならないと分からないと思うがゆえに、妙に人間そのもののスキルが退化していくことは、自然なのだとも思う。
以上