[本文引用]
古今東西、いつの世の中も人間はリーダーを求める。
過去の歴史を振り返っても、今私たちが生きているこの瞬間でも、ほとんどの人はどこかにリーダーの存在を意識し、そしてリーダー求める。
一方で、リーダーに自らなろうと思う人がどれぐらいいるのだろうか?特段の根拠がある訳ではないが、私の感覚では、10に一人ぐらいだろうか?もっと少ないかもしれない。
ちなみに、私は、会社の経営者と言う意味では、リーダーをしている訳だが、子供の頃からを振り返って、リーダーに自らなりたかったタイプもでもないし、若い頃は、自他ともに認めるリーダーをしたこともない。
未だに、ちょっと苦い思い出としてあるのだが、目立たず控え目な私が初めて、学級の委員長になったのは、小学校6年の三学期だ。なるはずのない私が選ばれた。
クラスの投票で決まるのだが、その時は、男子の友人たちがちょっといたずら半分で示し合わせていたようだ。後でわかったことだが、だからといってその行為に対しては、特に怒るタイプでもなかった。
結果、短期間だが、学級委員長のような事をしたことがある。何をしたかは全く覚えていないが、感覚的には、人の上に立つとはこういうことなんだと何となく分かったような体験だったと思う。
それ以来、私の場合は、最初働いたゼネコンの寮で、若手がいないからという理由で、寮長を2年ほどしたことがある。これも特段、凄い役割でもなく、寮母さんと仲良くなったのが、一番印象に残っている。
こんな次第で、今私が、会社の経営をしていて、かつ、よそ様の企業や組織に対してリーダーシップとは何か?を教えることもある。リーダーの発掘や育成、活用などについて、日本のみならずベトナムなどの新興国でサポートしている。不思議と言えば不思議だ。そして、気が付いたら、いつのまにか、刺激的なリーダーに出合うことが楽しみのひとつなっている。
改めて振り返ってみると、おかげさまで色々な分野のリーダーの方々とのご縁が出来た。
そんな中で、自分としてもそれなりに分野問わずリーダー然としていようと強く意識している。
少し前、メディアプロデュースのシニアパートナーと食事しながら、色々な話で盛り上がっている中で、私が日頃思っているリーダープについて、シンプルに訊ねてみた。
“リーダーシップにハッタリってありますよね?”
すかさず、“そうですよ。近藤さんの言う通りですよ。”
と思わぬ同意を得た。それに加えて、興味深い示唆を頂いた。
氏曰くそれは英語で言えば、ビジョンですよと。
なるほど、妙に腑に落ちた。我が意を得たりだ。
話は、自然とビジョン談義に移っていった。
そんな訳で改めてリーダーシップを考えてみる。
ビションを持たないリーダーがいるかと言えば沢山いるだろう。ビジョンを持たないとリーダーができないわけではない。
例えば、雪山で遭難した時に、リーダーの役割と言えば、冷静な判断力と勇気だろう。そしてそれは、何よりも重要な決断をする役割である。間違えば生死にかかわる。他のメンバーはそういうリーダーに従う。これが基本だ。こういう場合で考えるとリーダー像のイメージは分かりやすい。
だが、ケースバイケースである。
とはいえ、例えば、社長業で考えたら、こういうケースに遭遇することはほぼない。
勇気や決断力は必要だが、やはり一番に挙げられるのは組織を統率する力だ。
マネジメントという言い方も近いが、リーダーシップとはトップの態度や気持ちや意志のあり方である。一方、マネジメントは人を動かすときの方法論の一部である。
確かに、ビジョン経営とは世間では言われているし、私もそういう意識はなくはない。
ただ、私が思い浮かんだハッタリとは違うし、前述のパートナーが、即座に反応したビジョンとは意味が違う。
飲み会の翌日、酔いがさめてから私は、ネット調べてみた。やはり、ハッタリはビジョンではなかった。
ブラフとある。これはこれでビジネスでも時々使う言葉だ。
それはそれである。
重要なのは、辞書にあるかどうかではなく、その言葉や表現が、感覚的に腑に落ちるかどうかである。かといって、この言い回しを拡げたいわけではない。
今、コロナ禍で世の中は大きく変わろうとしている。一方、元通りで良いという勢いも強い。綱引きではないが、混沌とした中、健全な世の中に向けてトライしていく絶好のチャンスであると思っている。そういう意味では、一企業だけの課題ではない。
ハッタリと言われようが、どう思われようが、信念をもって、ことに望んでいこうと思っている。
以上