[本文引用]
親子で学ぶという考えや実際の活動はいつごろ、拡がってきたのだろうか?
私が子供の日頃には、親子で学ぶ考えや機会は、ほぼ存在していなかったと思う。
もっとも、農村での生活なので、都会での生活は違っていたかもしれないが。
そして、自分が親になり、子どもには勉強は少々教えたことはあるが、親子で学ぶと言う感覚はなかった。
私は、このブログでも繰り返し書いてきたが、今は、大人がとても多くのことを学ばないといけない時代であると思っている。
これはビジネスに関しての話だけではない。
むしろビジネス以外の生活環境のこと、地球環境のこと、温暖化のこと、健康のこと、高齢化社会のことなど、挙げだしたら際限なく出てくる。
それだけ、変化が早くなっているし、情報が溢れている。10年前の知識や経験だけでは役に立たないことが増えている。
そして常に根底には、科学の新たな解明や技術革新が加速しているということがある。今の経済メカニズムの進展によって、地球が破壊され続けてているということ、人口爆発による食糧危機や水の危機などの深刻な問題も見えないところで増大していることなども大きな変化である。
こんな時代は、親が今まで培ってきた知識や経験を教えるだけでは、子どもの将来にはあまり役立たない。まあ、せいぜい、30年ぐらい前のように、学校の勉強を親として少し手伝うぐらいのことは出来ても、子どもが自立して社会に出ていくための一助にはならない。
ただ、こんなことを言い出したら、子どもたちに今の現実を教えられる人が世の中にどれだけいるのだろうか?
こんなことを書いている私も正直心許ない。
確かに、ビジネスのことや社会のこと、人間関係の構築の仕方などぐらいはなんとか教えられるかもしれない。しかし課題だらけの資本主義が当たり前に定着してしまった現代において、その当たり前の中に隠れてしまった、隠されてしまったとてつもなく深刻な環境破壊の問題など、一体誰が教えられるのだろうか?
はたまた、劇的に進展するIT社会において、パソコンやスマホは子供の方が知っているという親子が圧倒的だと思う。私は、たまたま、仕事で関わってきたから分かるだけで、時々、ふと、自分が仕事でITを知らなければ、こんな使いづらい、分かりづらいものは無いと思う。今でも時々そんな心配が頭をよぎる。
本当に、親としても大変な時代になったものだ。
だから、親子で一緒に社会や変化を学ぶと言うのはとても自然の流れで、もっと拡がると思う。
とこか、親子で一緒に学ぶというのは子供が何歳ぐらいまでなのだろうか?
これは、子どもがいつまで子供であるか?ということとも近い。
私の感覚では、それは中学生ぐらいではないだろうかと思う。
そんなに明確に根拠がある訳ではないが、私が気に入っている本がその目安になる。
例えば、10年以上前に発刊された“13歳のハローワーク(著者村上龍)は秀逸だ。最近では池上彰さんの”なぜ僕らは働くのか“も、なかなか良いまとまりだ。
中学生あたりが、働くことを考え始める適齢だとすると、大人への分岐点ではと思う。
共育と言う言葉がある。
デジタル大辞林ネットによると次のような意味だ。
親・教師・学校など教育権を持つ主体だけでなく、多様な立場や領域の人や組織が連携して教育を担うこと、あるいは教育・養育・指導を行う側と受ける側がともに学び成長すること、などを意味する造語。
なるほど確かにこれからは共育の時代だと思う。
教育に関わる全員が、教えることも教わることもある。親も子もない、上も下もない、先生も生徒もない。もちろん、年齢や立場に対するリスペクトは必要だが、地球の一市民としては平等だ。
むしろ、若い人の方が、地球の未来に対しては、関係する時間が長い分、不安が増長される。地球は今とのところ、良い方向には向かっていない。それは人間がまだ方向転換できていないからだ。
私は、環境問題や生物多様性の問題にしても、まず必要な第一歩は学びだと思っている。
そのためには、誰かが教えるだけの人になるのではなく、皆が教わる人であり教える人である世の中を目指したいと思う。
親子で学ぶこともその範囲に入るし、子どもが高校生になるころには、社会の共育の仕組みの中で学べればよいと思う。それは、大人と子供が一緒に学ぶ場である。
実は、10数年前に、親子で学ぶシリーズで2つ冊ほど書籍を出した。
訳あって長い間、中断していたが、この親子で学ぶシリーズを何らかの仕組みで再開しようと真剣に考えている。
大人と子供が学ぶシリーズとタイトルも一新しようと考えている。
テーマはビジネスのことではなく、生活全般、社会問題、情操教育など色々とネタは満載である。
以上