[本文引用]
私の人生も半世紀を超えた。
何かにつけて、学ぶことが増える今日この頃である。
学ぶといえば、小さい頃の学校での勉強が印象的だが、考えてみれば、人間というのは生まれたばかりの時に、考えられないくらいのことを学ぶ。
赤ちゃんがどうやって言葉を覚えるのかも、個人的にとても興味が湧く。何度かそれを説明した本を読んだことがある。言葉を覚える前から、表情や泣き声で母親とコミュニケーションができる。これらは本能として生きるためだ。
それこそ、大人になってもスポンジのように吸収するのが大事という教えを何度も聞いたことがあるが、まさに赤ちゃんはそういう状態なのだろうと思う。
その後、成長の過程で、学校のテストのための学びに変わる。やがて、たいていの人が受験勉強に進んでいく。私も少しはそういうプロセスのなかで、学びを覚えてきた。
いまにして振り返ると、それはそれで役に立っていることはある。国語で言えば、少なくとも漢字や言い回しは覚えたものは幾つか使っている。算数の九九なども一生使える。そんな風に考えていくと、幾つか役に立っているものもあるが、膨大な時間に対して、得たものがとても少ないように今の私は感じる。
半年ほど前に、ふと気になって、今の子供の教科書はどんなものなのだろうと思い、幾つか参考図書を買ってみた。教科書を手に入れたかったが、それは手間がかかりそうなので、大手教育系の出版社が出している参考図書やドリルを買って眺めてみた。
なんと、今私が関心がある色々な世の中のこと、社会のこと、環境のことなど、分かりやすくコンパクトにまとめられているではないか。
その時以来、私は、小学校の教科書を使って大人が学ぶことはとても重要だと確信を得ている。
今の私の感覚を整理するとこうだ。
そもそも大人になる過程で余計なことを覚える。知恵もつく。しかしそれは考えてみれば、働くことが基点になっていて、今の経済メカニズムに沿った会社の活動、働き方に必要なことを中心に学びが進行する。
結果それが、地球環境に悪影響でも、ITを使って顧客をだます商売でも、それが普通だと思ってしまう。自分の会社で、成果を出すことにのみ関心が強くなる。そうしないと、仕事で結果を出せない。仕事ができない人となるからだ。
もちろん、経済メカニズムの論理で考えると、稼がないといけない。しかし、その稼ぎ方に問題があっても、それの良い悪いの判断もできない、それに気づかない、仮に気づいたとしてもあるべき姿に変えることなど到底不可能に感じる。
こうやって、大人になる過程で、今の世の中の仕組みに巻き込まれていく。
子供の頃の学びに戻って考えると、受験という目的はあったにしても、とてもピュアな学びをしていた時期とも言える。
なぜなら良い意味で、実体験がなく知識のみの学習だったわけである。いわゆる染まっていない状態だ。
例えば、今のプラスチックの環境破壊の問題やエネルギーの問題などは、今の子供たちがどういう学びをしているかに興味がある。親がそういう職業についていない限り、そもそも、親子で議論は起こらないと思う。
例えば、プラスチックが生態系に影響し人体への影響も含めて環境破壊が進む。科学的な証明がされている現代においては、その事実そのものが子供たちの学びになる。
それと比べると大人は都合よく解釈する。そうは言っても急には変えれない。いやそんなことしたら、会社の商売が成り立たなくなる。様々なしがらみや事情を持っている大人ではピュアな学びができる機会は皆無だ。
自分の今に都合の良いことばかりを学び続ける。いっそのこと、仕事を辞めて、小学校に通いなおすと、今必要な事が純粋に学べるように思う。そんなこんな理由で、大人が小学校の教科書で学ぶ授業を始めようと思っている。
以上