[本文引用]
トヨタの“なぜを5回繰り返す”は、あまりにも有名である。
あの世界に広まったカイゼンの基本の基本、本質的な仕事のエッセンスである。
私もビジネスの場では、トヨタの事例や仕事の考え方を引用することは多い。
もっとも、私は、実際にトヨタで働いたことはないので、その現場感がある訳ではない。一方で、大小問わず業種問わず、どんな企業の現場でも腑に落ちることは沢山ある。
だから、自然とエクセレントカンパニーの強さの秘訣を知りたくて、常に気になっている存在である。
なぜを5回繰り返すという表現は、絞り切った雑巾をさらに絞るという表現と近い。いずれもトヨタネタにはよく登場する。私もこだわり型の会社経営をしているので、これで良しとはなかなか思わないタイプではあるが、大規模な組織が継続的に長年実践していることの凄みは感じる。
この”5回繰り返すなぜ”がなぜ必要かを私なりに考えてみる。
なぜを繰り返すというのは、私は、考え続けると解釈して差し支えないと考えている。
考えることというのは、とてもエネルギーを使う。考える力と書けばわかったような気になるが、これはとても奥が深いし、人に説明するのにも感覚的なものになりがちだ。
だから私は反対に、考えない、あるいは考えられない人とはどういう人をいうのだろうかと考えるようにしている。
分野や専門により考え方や考える内容は、当然違う。
例えば、金融なのか建築なのかITなのかで考えても、前提知識がないと考えることすらできないし、経験がないと考えようがないと思われる。
考えるといえば、小学校の時の勉強を思い出す。
要するに、回答を探す、回答を導き出すという訓練を毎回毎回繰り返しているのがこの時期の勉強だ。そして、だんだんと受験勉強が近づいてくると、今度は覚えることばかりにシフトする。
今の日本人は、こういう子供時代の習慣の影響も重なっていると思うが、一つの答えを探す傾向が強いのではと思う。
話は変わるが最近私は科学的思考に凝っている。何冊か本を読み漁りながら、科学の本質的なことが幾つか分かってきた。ある意味、この2か月ぐらい、私は科学的なことをずっと考えている。
科学は反証されるから科学である。反証されないものは科学ではない。科学は仮説で始まり、ずっと仮説である。一見、ピンとこないが、これを考えるという観点から考えると、いつまでも科学は100%の解ははないし、そこに到達しないので、常に考え続けているということになる。
これはトヨタのなぜを繰り返す話に似ている。
仮に、学校の勉強で身に付けてしまった、考えることは正解を一つに決めること。こういうことが考える力の基礎になっているとしたら、本来の考えることの基礎すら身についていないということになる。
幼少期、大抵の子供はお母さんや周りの人に、なぜを連発する。それはある意味、何も考えていないし、何も知らないから、好奇心というか生きるための本能として、知らないこと、分からないことを聞くという行動だと私は解釈している。
流石に、この感覚を仕事場に持ち込んだら、上司や周りは迷惑極まりない。一般的には、聞く前に考えたかと言われるのがオチだろう。
考える力というのは、単純に人に聞く力ではないし、なぜを人にぶつければよいというものではない。子供の時代と違うのは、“なぜを思い浮かべる力”というのは、何歳になっても失ってはいけないが、自分で考える、自分で調べることを先に行うことが大事である。
そして、答えが見つからなくても決して諦めない。本当にやり切って、それでも答えが見つからなくて初めて、上司やエキスパートに聞く。一見時間のロスで遠回りになるようであるが、決してそうではない。トヨタのなぜの繰り返しと同じように、これは習慣化の問題でもある。自分で考えることを習慣化するのである。そして、答えが見つからなくてもよいのである。
あと、子供の時のなぜが、なぜでなくなるのかも考えておく。
人間には知識や経験が積みあがってくると、考えるというエネルギーを要することから、労力を避けるような方向に本能が働く。
特に長年経験を積んだエキスパートになってくると、自分の歩んできた道を疑わない。自信があるがゆえに、疑うことがない。世の中が変化や進化しても、それに気づくことが出来なくなる。マンネリ化にも近い。
私はこういうことを全てまとめて、“考えない症候群”、“考えられない症候群”と表現している。こういうことを防ぐためには、やはり、疑ってかかることだ。何事にも完璧はない。科学の仮説の心と一緒で、いままでの積み上げも仮説として考えるとこが大切である。
また、このテーマは私自身が考え続けて、また、書こうと思うが、“人間は考える葦”であると表現したパスカルは本質を見抜いているからこそ、いまだに語り継がれているのだろうと思う。考える力をつけるために考えることは一生続けていこうと考えている。
以上