[本文引用]
情報と人間との付き合いは、かなかな厄介で大変な時代だ。
そもそも、人間が情報を生み出していると言っても過言ではないが、現代は、自らが生み出した情報に振り回されているとも言える。
人間は社会的動物であり、人類誕生以来、人間同士が連携して生活してきたし今はチームや組織に属して活動もしている。
様々な方法で、お互いのコミュニケーションをとりながら、安全で安心な暮らしや活動を実現している。このコミュニケーションによって、人は人に情報を伝えてきた。
もちろん、知恵や経験など伝えることは有益だし、リスクについての共有も安全、安心のためにも必要だ。社会生活やビジネスの仕組みが今のように複雑になるにつれ、人から人へ伝える情報も大量で複雑になって来た。
私も時々考えるが、新興国などと比べると日本は情報が過剰である。
こうなってくると、そもそも、情報は何のために必要なのかが分からなくなってくる。情報が情報を生み出すこともあるし、必要以上の情報が世の中には流通している。特に拍車をかけているのが、ネット社会の進展だし、ITを使う人が増えてくるとますますこの傾向は強くなる。
何とも平穏に暮らすには難しい時代になったものだと思う。
だからこそ情報リテラシーを高める必要があるのだが、何から始めればよいのかが分かりにくい。
情報を意図的に遮断しない限り、日本のような国で暮らしていると、情報がどんどん頭に飛び込んでくる。知らなくてよいことまで知ってしまう。
特に、スマホでちょっとした合間に、プッシュで送られるニュースなどに触れるだけでも、その瞬間は暇つぶしにはなるが、ますすま、情報過多の世界に引きずり込まれる。
自分にとって必要最低限の線引きが乱れる。
発信源を総称してメディアと呼ぶとすると、メディアの発信の意図や目的、狙いを推論することは大切だ。
新聞であれば、新聞社ごとの特徴がある。また、記者によっても意図が違う。週刊誌や夕刊紙にも意図が当然ある。私もよく見るが、概ね誇張記事が多いと思う。部数を増やすことが目的なのは明白だ。
また、個人ブログにも発信者の意図は千差万別だろう。一番多いのが、ビジネスとしてあるいは、ビジネスのきっかけとして発信されているブログだ。
受け手からしたら同じように思える情報でも、発信者の意図によってその情報の健全性や仕込まれた目的などが全く違う。
そういう意味でも、まずは、情報の出所は出来る限り明確に把握することが大切だ。逆に言うと、出所不明の情報に関しては無視してよい。
新聞であれば、新聞社が出している。これは出所は明白だ。ブログもたいていは書き手のプロフィールは確認できる。SNSの投稿情報であっても、同じように確認できる。
まとめると、出所が不明だったり、特定できても信用出そうにないものは捨てることである。
その前提で、次に大切なことがある。
それは、発信者の意図を推論することである。なんのために書いているかによって、情報の役割が違う。当然、自分にとって有益かどうかを大きく左右する。
広告と連動した情報が必ずしも悪いわけではない。その見分け方のポイントは、やり方が健全かどうかだ。言い方を変えれば、信頼できるかどうかでもある。
今は、ITの仕組みが見えないところで急激に浸透している。そういう中では、巧みなマーケティングが仕掛けられている。
これからは、企業の経営姿勢そのものの見極めも重要な時代になってくる。
人にしても企業にしても、如何に信用できるかを私達が、確認するスキルを身に付けるべきなのである。
以上