[本文引用]
日々、世間では表現者は増える。
一昔前、表現者と言えば、限定的な人の役割だった。
そういう意味では、プロの領域の仕事だったと言えるかもしれない。
新聞記者、テレビのアナウンサー、本の著者、講演者などがすぐに思いつく。
時代は変わり、今やSNSを代表として、様々なネットのプラットフォームで、一般の人が自由気ままに色々な表現をできる時代になった。
表現する人の目的も様々だと思うが、やはり、表現する以上は、特定か不特定にかかわらず、誰かに聞いてもらいたいと思うのが自然だ。自分の考えを誰かに届けたい。共感者とつながりたい。あるいは、出会いのためのきっかけとして表現する人もいるだろう。
私も、創業して30年近くになるが、20年以上前に、書籍を出したことによって、本格的に表現者の仲間入りをした。それから、セミナーは言うまでもなく、ブログや専門誌への寄稿など、表現者が使うほとんどの手段に関わってきたことになる。
今は、SNSにしても、健全なSNSと自分が判断したものを使っている。
私の場合は、Twitterを10数年前に始めたのがSNSの始まりだ。今では、Facebookを一番活用しているが、特に理由があった訳ではない。しいてあげれば、ブレインワークスの社外取締役がFacebook勤務だったというのが最大の理由かもしれない。
そして、今では、オンラインセミナーで四六時中話ししている。
そんな私の体験で、表現者としての立場で、私の表現を受け止めていただく方々に期待したいことを書く。
まず頭に浮かぶのは、表現した中身に対してどう反応して欲しいかだろう。
要するに、自分の表現を見て聞いてどう思ったか?これに関心がない表現者はまずいないと思う。
なぜなら、先ほども書いたように、きっと誰かに伝えたい、誰かに聞いてほしいから表現する。そうすると、その反応は必然として意識する。
世の中には、批評するという役割の人が少なからずいる。評価とも言われたりするが、私は批評は必ずしもネガティブだとは思っていない。クリティカルシンキングというのがあるように、人に批評してもらうことは意味があることが多い。
ところが、この批評一つにしても、単なる揚げ足取りや攻撃的な態度の人をどういう風に区別するかは結構難しい課題である。
人は誰しも、自分に耳障りの良い声を好意的にとらえる。私は、SNS上での反応のコメントなどを見ていても思うのだが、まだまだ、表現者と受け手のお手本となるようなマナーやガイドラインが出来ていないと思っている。
例えば、今どきのSNSで発信することは、写真や動画と言うのもあるが、やはりテキストを添えることが多い。そうすると、本来は1000文字ぐらいで表現することでも、100文字で表すこともままある。私もそうだ。極端な話、時間がないときなど、1行も書かない。
もちろん、発信する方の責任も重要だが、基本的には発信者が公序良俗に反しない、誹謗中傷をしないなど、常識的なことが守れていれば、発信する内容は、自由だろう。
しかし、一方で、受け取る側に好き放題に反応されてもたまったものではない。
テレビのニュースなどで随分以前から問題視されてきたが、例えば、ある人が20分間、記者会見をしたとしよう。メディアは自分の意図で、ほんの30秒だけを切り出す。
全体の表現を汲んだ、発信は行われない。
こういうことが個人の発信の世界でも日常茶飯事に起こる時代だ。
SNSの不完全かもしれない発信に対して、返信する。好き放題に書く。
こういうことが蔓延しつつある。
表現者の発信を受け止めるためのリテラシー教育が急務であると私は思う。
以上