[本文引用]
ここ数年、多様性を意識して活動することが多くなった。
世間でも多様性が流行っている。
環境問題で必ず登場するのは生物多様性。多様性はダイバーシティという表現でも使われているが、働く環境で使うことも多い。また日本のように異文化、多文化共生でも多様性は問われる。
そして、今年の夏のパラリンピック。様々なハンディを背負った方の生き方や存在を改めて認識した。
多様性をウキペディアで調べてみる。
多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。 英語の多様性"diversity"の語源は、ラテン語ではdiverstiasに求められ、この言葉は、最初には、一致可能なものに反すること、矛盾、対立、不一致、といった消極的な意味を有したが、第二義的に、相違、多様、様々な形になる、という意味も併せ持っていた。17世紀になって、消極的な意味が失われ、現在のニュアンスになったとされている。また、diversityとは、相異なる要素を有する、もしくはそれから構成される状態であり、そこから更に、異なったタイプの人々をあるグループや組織に包摂すること、とされている。
なかなか奥が深い。
日本の仕事の世界で多様性が言われるようになってきてもう10年は越えるだろう。
日本は特に、ビジネスは男性社会の感が強い。
こういう関連の調査でも、女性の社会進出が遅れている国としても有名だ。
それを改革するために、女性が活躍できる社会を創ろう。それがダイバーシティ経営と言われるようにもなった。それに加えて、私はシニアの活躍の場創りも同じ目線だと思っている。
さらに、それは外国人の活躍の場創りでも同じことが言える。
私は仕事柄、新興国との接点が多い。
特に数年前からアフリカで活動するようになってからは、ルワンダ人、ケニア人、ウガンダ人など沢山のアフリカ人と交流が出来た。
日本の人は感覚的には、アフリカ大陸をイメージして、まとめてアフリカと認知する人が多いがなんと実に54か国もある。
これと似たような感覚はどこにでもある。
例えば東南アジアでも20年前は近い感覚だったが、今は一つずつの国に対しての認知が上回ってきた。ベトナムはベトナムだし、ミャンマーはミャンマーだ。
やはり、交流ができると親近感も沸くし、個別の認識が進む。逆に言うと、縁がなかったり情報が曖昧だったりすると、まとめてアバウトに認識してしまう。あるいは、自分がアジアでもたまたま、カンホジアだけに精通していると東南アジア全体がカンボジアのイメージで支配されるだろう。
実は、私は四国の徳島県出身で、これと似たようなことを何度も体験してきた。特に日本の東で生まれ育った人は、四国4県もなかなか分からないし、徳島の位置を正確に言える人は少ない。
これは反対に言えば、私たち関西人が東北地方を正確には知らないのと同じことだ。
人間は本質的に同質を好む。しかし昔と違って世界中がつながる時代。今までのように閉じたコミュニティや人の集まりのあり方も変わってくる。
また、日本のどこに行っても外国人が沢山生活している。裏を返せば、すでに日本の隅々までが多様性が進行しているということである。
日本でも世界でも多様性の原点を一人一人が認識する必要がある。私たち人間はもともと同じ地球上の多様性の中で生きてきたことを前提に暮らす時代である。
国籍の違いによる多様性が原因で人を区別したり差別したりしない。こういうことが当たり前の考えだとは思うが、そろそろ、人類はもっと先に進化しないといけない時期だと私は思う。
日本で多様性と言う言葉が使われなくなったときが、本来日本が目指すべき状態になると思う。
以上