[本文引用]
人間には本能というか性が幾つもある。
自分自身の人生でもそれは実感できるし、人とのお付き合いでもそれは学ぶ。
本音と建て前とは違うと思うが、人間は社会的動物であり基本的には自分以外の人間とのコミュニケーションをしながら生きている。
特に言葉を駆使する人間はとても特殊な動物だと思う。また、理性があると言われていて社会生活や集団生活を円滑、円満にするような行動もできる。
しかしこういうことはかなり個人差がある。
“船頭多くして船山に上ぼる”という誰でも知っている諺がある。
デジタル大辞林で調べてみた。
指図する人間が多いため統一がとれず、見当違いの方向に物事が進んでしまうたとえ。
要するに意見がまとまらない、考え方の違いでチームや組織は迷走するという感じだろう。船は本来、川や海の中にいないといけない、あり得ないが山に行ってしまうという戒めである。
この諺を知ったのは、私は多分小学生か中学生だったように思う。当たり前だが、その頃はことわざの意味はピンとこない。20代になっても、突出して何か人の前に立とうという意識もなかったので船頭の人たちの感覚はまだ遠い存在だった。
そして、31歳で独立していきなり会社という船の船頭になった。船頭の役割や必要なスキルも分からないまま、世間からも社長(船頭)と呼ばれるようになった。
船頭でも船に乗っている人が1人もいなければ、どこへ行こうが船の操縦が未熟でも自由気ままで良い。ところが、一人でもいると責任は格段に違ってくる。
今一度、冒頭の諺にある、船頭が多くいる船に乗ったイメージを想像していただきたい。
皆一緒と思うが、誰しもきっと不安がよぎる。そして船頭が複数いる理由も気になるだろう。巨大戦艦であれば、なんとなくの納得感はあるかもしれないが、小舟に船頭は1人だけで良いという感覚を私達人間は本能的に持っている。きっとそう思う。
だから船頭が多くいる状態を想像するだけでも、結構な違和感を感じる訳だ。
では、次の事を考えてほしい。実際にこんなことを体験したことがあるかどうか?
つまり、船頭が多い船に乗ったことがあるか?
あるいは、船頭が多い船に乗っている人を見たことがあるか?本物の船ではありえない。事故やトラブルになる可能性は大だから、そういうことは起こりえない。ちなみに、この船頭多くしてと言うのは、いざという時の交代要員としての船頭は除かれる。
実は、ビジネス社会や一般の社会を長年生きていると、船頭が多くしてというのはあちこちにあることに気づく。
諺になるぐらいだから、随分前から人間の悩みであり、そうならないように戒めたことわざだと思う。要するに人間は本能的な性で、船頭になりたい人が集まると、こういう状態になるという性質であるということである。
逆に考えると面白い。流石に船頭ができるスキルを持っていながら、誰も船頭になりたがらなかったらどうなるか?当たり前だが、船は動かない、動かせない。
町内会でもボランティア活動のPTAでもなんでも、会社でもやはり一人の責任者が理想だ。リーダーは一人で良い。船頭はマネージャーという感覚よりもリーダーのニュアンスが近い。こう考えるとリーダー多くして船山に上ると読み替えると、結構すっきりするし、身近で意外と多いことに気づく。
ここで、私の心構えを少し書くと、私は会社経営という役割では船頭である。しかも自分で創業したので、こういう感覚では、今でも船頭は私だけである。
もちろん交代できる準備はそれなりにしている。私が、自分が責任を持つ会社以外の活動や何かの集まりの責任者になりそうなときにどうするか?やはり、結果的には船頭は一人になるように私は行動する。仮に私しか船頭のなり手がいなければ、私がする。
しかし、他になり手がいれば、その人にしてもらう。複数いても必ず船頭は一人にしてもらう。
なぜかと言うと、船頭が複数で良好だった組織やチームを見たことがないからだ。
良くありがちなことではあるが、最初は順風満帆に見えるのだが、半年たち1年経ちすると、必ずその船は迷走する。理由は簡単だ。山に上るとは誰も思っていない。行先はどの船頭も間違ってない。だが、時間の経過と共に迷走する。それは船頭それぞれの船の漕ぎ方が違う。みな責任とエゴがある。船頭ができる所以であり人間である所以である。
やり方を相手に任せるなら、自分は船頭を降りざるを得ない。
こんな葛藤と迷走の中にいる組織やチームは、自分の身の回りやメディアで見ていても山のようにある。それは国かもしれないし、自治体かもしれないし、会社かもしれないし自分の身近にある活動かもしれない。
大切なのは、結局は、自分がどうふるまうかであると私は思っている。
それは自分が船頭であっても乗るだけの人であってもである。
だから、私は船頭が多い組織やチームには関わる気が全くないのである。
以上